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今でも忘れられない「ドーハの悲劇」を振り返る
Wカップの年になるたびにドーハの悲劇ってフレーズが出てくるけど、これがあったことでサッカー界はどうなっていったの?
ドーハの悲劇によって、日本のサッカーが一つの転換期を迎えたといっても過言じゃないと思うよ。
あの悔しさや悲しみは、何十年経っても語り継がれるし、語り継がなきゃいけないんじゃないかな。
今やサッカー日本代表もWorldCUP出場の常連国に仲間入りを果たせていますが、かつてはアジア地区の予選を通過するのも四苦八苦していた弱小国で、WorldCUPへの出場など想像も出来ない時代がありました。
そして、そのWorldCUPに出場にあと一歩という所で出場を逃したのが、94年アメリカWorldCUPのアジア予選の最終戦、カタール・ドーハで行われた対イラク戦、後に「ドーハの悲劇」と称される事となった試合となります。
日本代表がこの試合で勝てばWorldCUPに出場する切符を手にする事が出来たのですが、結果は2-2の引き分けに終わり出場の夢は断たれました。
終始日本代表が有利に試合を運んでいて日本国中がこれは行けるのではと、大いに期待を膨らませていました。
しかし後半のロスタイムに入り、ラモス瑠偉選手(当時)がクリアしたボールをイラクの選手がゴールに向かって蹴り、なんとボールがゴールインしてしまいました。
放心状態の中試合が終了してしまいます。
勝たなければならなかった試合に引き分けた代表メンバーは皆、うなだれてしまい、頭を抱え座り込むラモス選手や、泣き崩れて横になる中山雅史選手が画面に映し出されていたのを今でも鮮明に憶えています。
観戦していた人々もその結果をどう受け止めて良いか判らず、やり場のない思いだったことでしょう。
この経験が糧となり、その後の男子サッカー日本代表の分岐点になったと、今ではそう思えてなりません。
もう少しで届きそうな所でスルリと、こぼれ落ちたモノの大きさは計り知れず、見ていた者ですら落胆したのですから当事者たちは、その何十倍以上の事だった筈です。
二度とあの苦い思いをしたくないという気概が今日にもきちんと受け継がれているからこそ、常連国の仲間入りが出来る様になったのではないでしょうか。
後日聞いた話では、あの時闘ったイラク選手達には「負けたら全員死刑」という御達しが出ていたという物騒な噂を聞きました(飽くまで噂です)。
彼らにも負けられない事情があって、ある意味引き分けで終わった事は日本代表に後々プラスに作用しましたし、イラク代表選手達にとっても最悪の事態を免れられたのでこれはこれで良かったのかもしれません。